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その他のシリコンバレー関連活動

2006年4月20日

経済ソサェティー(20060420)

「HOW TO ASK FOR MONEY」と題した 経済ソサェティー日米ビジネスフォーラム に参加してきた。

経済ソサェティー はシリコンバレーを代表する日系コミュニティーのうちの一つ。 私は今まで参加したことがなかったが、 今回、初めて参加してみた。

というのも、昨日のブログでも紹介した 「将来の留学準備としてこちらの大学視察に来られている方」 が出席を希望されたので、その方をご案内するために、 私も出席させていただいた。 初めてといっても、参加者の半分ぐらいは他のイベントで お見かけしたことのある方なので、それほど違和感はなかった。

今回のイベントは、「HOW TO ASK FOR MONEY」と題し Wilson Sonsini Goodrich and Rosati の大会議室で行われた。 日系の VC、エンジェル投資家、コーポレートを代表するパネラー3名が お集まりになった。 パネラーには、ベンチャー・キャピタルを代表してGCPの大澤弘治 氏。 大澤さんは JTPAのボード、SVJENの代表も務められているので、 私は頻繁にお会いさせていただいている。 また、エンジェル投資家の代表として、平強 氏。 平氏は 「 エンジニアよ 挑戦せよ。 」の著者で、 先日のブログ『九州大学シリコンバレーツアー「QREP」 』でもご紹介した方である。

会の進行としては スタートアップ会社の社長が 3名のパネラーを始め、会場の参加者の前で プレゼンテーションを行い、 その後、3名のパネラーと質疑・応答を繰り広げる。 強いて言うと、日頃、企業家がVC巡りで行っているプレゼンの公開版といった雰囲気。 結局、中国系とインド系の会社の社長がプレゼンを行った。

ここでのポイントは プレゼンや応答は簡潔にポイントをついて 行うこと。 それから、会場からの「投資するかどうか決めるために何を見るのか」 という質問に平氏は「fire in your eyes」と答えておられた。 直訳すると「目の中の炎」となるが、 これって「巨人の星」の 星 飛雄馬 の世界(ちょっと古いか)。 しかし、それくらい やる気 というか 闘志 というか 情熱 がないと 事業は成功しない ということ。

後で大澤さんから伺った話だが、 公開の席なので キワドイこととか、込み入ったことに 立ち入れないので 非常にやり難かった、とおしゃられていた。

【参考文献】

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2006年2月17日

SVMF ドコモUSA小野伸治社長 特別講演会

SVMF主催 2006年新春特別講演会第2弾! 「米国モバイル市場のダイナミズム」競争と寡占、 と題して、 ドコモUSA代表取締役社長 の 小野伸治氏 の ご講演が開かれた。

この講演会は、SVMFの主催として、 以前のブログでレポートさせていただいた 「SVMF 上田紀行先生 特別講演会」から、約1ヶ月ぶりに同じ場所 WSGRでの開催である。

この日ご講演された小野伸治氏は、以前シリコンバレーにもおられ、 その当時、SVMFの創設者の一人として活躍された方でもある。 また、NTTから派遣されていた小野氏は ドコモが出資していたAT&Tワイヤレスのボードメンバーとして アメリカ巨大通信企業のマネジメントをご経験されている。

講演では、アメリカにおける通信業界の歴史や、 繰り返される買収・統合の変遷について。 また、AT&Tワイヤレスがシンギュラーに買収される時点で 当事者としてのAT&Tワイヤレスの内部の様子などについての ご経験談が話された。

小野氏の沢山のお話の中から、 携帯ビジネスにおける日本とアメリカの違いについてひとつ。 日本ではNTTやKDDI等のキャリア側に主導権があり、 キャリアが打ち出してきた企画に則って 各メーカーが携帯機器を製造している。 一方、アメリカでは、製造メーカーの方が主導権を握っており、 メーカーが開発してきた携帯機器を 各キャリアが採用するような構図になっているようだ。

複雑・怪奇な変化を繰り返す通信業界について、 知識を整理するのに大変役立った講演会であった。

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2006年2月 3日

生き生きしていますか?

以前のブログ「SVMF 上田紀行先生 特別講演」 の中で   『 講演途中、ちょっとした会場アンケートのようなものを行ったが、 その結果が上田先生の今までの経験則からはだいぶ外れていたらしく、 シリコンバレーの特異性に驚かれていた。 』   と書かせていただいたが、 それについて、もう少し詳しくレポートしてみよう。

上田紀行先生は講演が始まってしばらくすると、 会場の皆さんに対し、 「今現在、自分は 生き生きしている、と思いますか?」という 質問をされ、それに対する以下の5パターンの解答を用意し、 当てはまると思うところで手を挙げていただく形で 会場アンケートを取られた。 以下のカッコ内の数字が手を挙げられた方の人数。
  • 生き生きしている (38)
  • どちらかと言うと生き生きしている (39)
  • どちらとも言えない (8)
  • どちらかと言うと生き生きしていない (1)
  • 生き生きしていない (1)
上田先生は、この結果を見て驚かれていた。

通常、日本国内で行ってこられた講演会でも 必ず同様の質問をされるそうなのだが、 今までの経験則では、 「どちらとも言えない」に回答が集中するのが 一般的で、残りの回答も、その1つ上下の 「どちらかと言うと〜〜」になってしまうそうである。

ところが、なんと今回の回答では 「生き生きしている」という最上級での回答が 全体の40%を越えており、 また、「どちらかと言うと生き生きしている」も ほぼ同数あり、両方をあわせると、 およそ80%を占めてしまっている。

もう一つの注目点として、 「生き生きしていない」というところで 手を挙げた方がおられる点である。 人目を気にする日本人文化の中では これはこれで大変勇気のいる行動であり、 通常の日本国内での講演で、はほとんど見られない現象だそうだ。

このアンケート結果だけからしても、 シリコンバレーに住む日本人の特異性がうかがい知れるのかもしれない。

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2006年1月25日

福岡県 シリコンバレーベンチャー訪問ツアー

福岡県の企業家の方々がシリコンバレーの 視察にやって来られたので、それについて。

福岡県は既に数年前から、福岡県内の企業家参加による シリコンバレーツアーを開催されてきている。 今回のツアー・プログラムの一セッションとして、 井手さんのセミナーがピクセラで開催された。 私もそのセミナーのお手伝いをさせていただくと同時に、 私自身の自己紹介や渡米の経緯を5分間ほどお話させていただいた。

夕方からはカバナホテルでこのツアーのためのパーティーがあり、 60名程の方々の参加があった。 会場では、参加企業の一社、コガッテックさんが 福岡からワザワザ持ってこられた 二足歩行のロボットの実演をされていた。 NHKロボットコンテストに参加してきた自分としては 見逃せないと言うことで、 コガッテックの担当者の方には、 いろいろデモをしていただきながら、沢山のお話をうかがった。 それにしても最近のロボットはよくできているものである。

このパーティーに参加してみて、 「福岡県も頑張っているので、鹿児島県も頑張らないといけないかな」 と率直に感じてしまった。

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2006年1月20日

SVMF 上田紀行先生 特別講演会

SVMFの新春特別講演会が開催され、 東京工業大学の助教授で、 現在Stanford大学の客員研究員をされている、 上田紀行先生に 『ベストセラー「生きる意味」が示す現代、 これからいかに生きるか考える』と題した講演を 行っていただいた。

シリコンバレーのもう一つの日本人団体 SVMF(Silicon Valley Multimedia Forum)とは、 産業界や自治体関係者を中心に定期的に勉強会を行ったりと、 活発な活動を展開している団体である。 この会の現会長は松尾さんで 九州大学カリフォルニアオフィス所長、 副会長は何人かいらっしゃるが、その内、金島さんと八木さんとは 東京大学シリコンバレーオフィスの活動もされており、 私とは大学間連携会議でいつもお目にかかっている方々が運営されている。

SVMFを運営されている方々のほとんどは、 よく存じ上げている方々ばかりなので 時々お声がけしていただいていたが、 今のところ、JTPAやSVJENの活動でこれ以上時間が取れないので、 SVMFの活動はご遠慮させていただいていた。 しかし今回のこの講演会では、日本へのリアルタイム配信を実験するにあたり、 音声部分の技術サポートのご依頼を受けたのお手伝いさせていただくことにした。

上田紀行先生は文化人類学のご専攻で 「がんばれ仏教」等の著書でも有名な方。 また奥様はNHKのアナウンサーで紅白の司会も経験されている。 この日の講演は、最新著作「生きる意味」に基づいたお話が展開された。 講演途中、ちょっとした会場アンケートのようなものを行ったが、 その結果が上田先生の今までの経験則からは だいぶ外れていたらしく、シリコンバレーの特異性に驚かれていた。

この日の講演は、予定通り日本へもインターネットを通して配信された。 例えば熊本県庁とも接続しており、 講演会の音声がリアルタイムで配信されていた。 また、質疑応答の際は、先方からの質問も受けたりした。

今回の講演会では用意された120席がほぼ埋まり、 関心の高さが伺えた。 また、参加者には講演会等では通常あまりお目にかからない 奥様系の方々が結構多かったようだ。 講演の内容により、参加者の顔ぶれがこうも変化するものかと つくづく感じさせられた。

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2005年9月 6日

シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(4)

今まで3回にわたり、モフェット・フィールド(Moffett Field)について調査した結果から、 私が感じたことを率直に書かせていただく。

シリコンバレーの発祥・発展の歴史として、 スタンフォード大学やターマン教授のことがよく挙げられる。 それはそれでもちろん重要なファクターなのだが、 実は、モフェット・フィールドや、それを誘致した当時の人々というのも 忘れてはいけないファクターではないか、と感じた。

シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(2)』 で、モフェット・フィールドの始まりについて
このモフェット・フィールドは、1930年からNavy(米海軍)が用地を入手
と、さらっと書いたが、もっと詳しく書くと、 実はその裏に面白い逸話が隠されている。

当時の米海軍も新しい施設建設の場所を、簡単にこの地に決めたわけではない。 いくつもの候補地があったそうである。 そこで、この地域のコミュニティーが地域振興を目的に Laura Whipple 婦人を中心として、$476,679 で 1000エーカーの土地を購入し、 それを海軍になんとたった1ドルで売却したそうである。 当時、70年前のお金で、47万ドルと言えば莫大なお金である。 また、1930年といえば、世界大恐慌の真っ只中である。 そんな時分に、これだけの大金を投資したわけである。 これこそ、真の「Entrepreneurship」と呼べるのではないだろうか。

テクノロジーの発展の過程には、その是非はともかくとして、 軍事技術や武器開発が目的であることが多い。 その証拠に現在でも、モフェット・フィールドの敷地にロッキード・マーチンやモトローラ の建物が隣接しているのがわかる。 また、モフェット・フィールドの敷地内には、NASAの Ames Research Center もある。 この様に、1930年代にスタンフォード大学の目と鼻の先 (具体的には直線距離で約10Km)に、モフェット・フィールドが出来たことは その後のシリコンバレーの発展に非常に大きな意味を持ったと思う。 そのようになったのも、 当時この地に住んでいた人々のEntrepreneurshipによって実現したわけである。

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2005年9月 5日

シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(3)

この「Moffett Field Museum」については、1日分のエントリーで十分と思って書いていたら、 調べて行くと、どんどん長くなってしまうので、 既に第3話となってしまった。

さて、あの巨大な「ハンガー・ワン(Hangar-One)」をどう使ったのか、 なぜ、当時の海軍はあのような格納庫を建設しなければならなかったのか、 ということについて。

結論から言うと、その当時の軍事飛行船 メイコン号 (USS Macon) の 母港とするのが目的であった。 全長785フィート(約240m)の巨大な船体を収容するためには、 さらに巨大な「ハンガー・ワン(Hangar-One)」が必要だったわけである。 その当時の飛行機には長距離大量輸送の能力がまだなかったため、 飛行船こそがその手段と考えられていたからである。 メイコン号は、1933年10月16日より、このモフェット・フィールドを新しい母港として利用するようになった。 このメイコン号は、ジョージア州の都市 Macon から名づけられた飛行船で、 これは当時の海軍省の大臣がジョージアから選出の下院議員であったという 非常に政治的なネーミングである。

飛行船は、その表面の素材により、 表面が固い硬式飛行船と、非硬式飛行船に分けられる。 メイコン号は硬式飛行船に分類されるが、 これはその開発者にちなんで、 「ツェッペリン(Zeppelin)飛行船」と呼ばれている。

この巨大なメイコン号には、 5機の スパローホーク(Sparrowhawk) と呼ばれる小型飛行機を搭載。 上空で発進させて偵察飛行をおこない、再び船内に収容するという 当時としては大胆な事を行っていた。 これを無理やり例えるなら、 宇宙戦艦ヤマトで、ブラック・タイガーやコスモ・タイガーII等の艦載機が 発進したり着艦したりするイメージ。 では、実際の発艦・着艦はどうやっていたかと言うと、 まず発艦するためには、 メイコン号の下側部分のハッチを開けて、そこからパイロットが乗った小型機を吊り下げる。 それからエンジンを回す。エンジンが温まり飛行態勢に入った段階で、パイロットが自分で自分の機体を切り離す。 滑走路もなく飛行船から急に大空に飛んでいくのは結構スリリングであったであろう。 さらに難しいのが着艦する際である。 ちょうどブランコの様な物をメイコン号の下側部分に垂らしておく。 着艦したいスパローホークは、飛行船と同じスピードで飛行しながら、 2枚ある羽の上についているフック(ちょうどハテナマークのような金具)を そのブランコに引っ掛けるのである。正に「空中ブランコ」の曲芸技なのである。

それからこのメイコン号には、もう一つ装備があった。 それを英語では「spy car」と表現している。 宮崎駿の天空の城「ラピュタ」で 空中海賊ドーラおばさんの母艦タイガーモス号が ムスカ率いる艦隊に見つからないように雲の中を航行しながら、 見張り台の凧に主人公パズーが乗って、 雲の上から見張りをしていたのを覚えておられるだろうか。 これは凧だったので、母艦より上に上がっている格好であったが、 メイコン号では逆に、1000フィートのケーブルの先にゴンドラを付けて吊り下げ、 そこに見張りのクルーを置き、洋上を監視していたそうである。

そんなメイコン号も1935年2月11日に事故を起こし、 これがアメリカ軍での最後の軍事飛行船となってしまった。

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2005年9月 4日

シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(2)

モフェット・フィールド(Moffett Field)の米軍施設内に入ってからは、 「Moffett Field Museum」のページの地図のとおりに進めば 博物館にたどり着ける。

館内にはこのモフェット・フィールドにまつわる歴史的な品々が セクションごとに展示してあり、 その一角が小さな売店になっている。 そこでは、退役軍人の方々がボランティアで説明員をされており、 我々一行にもお一人の方が説明員として付き添ってくれた。

では説明員の方のお話しで理解できた部分と、 もらってきたパンフレットの内容から 簡単に説明してみよう。

このモフェット・フィールドは、1930年からNavy(米海軍)が 用地を入手し、翌年1931年10月5日に着工している。 当時ここは 「NAS Sunnyvale」(おそらく、NASは、Naval Air Station の頭文字) と呼ばれていた。 軍事飛行船の基地として建設されたこの施設は、 1933年4月12日から運用を開始した。 その直前、1933年4月4日に軍事飛行船アクロン号(USS Akron)の事故により 亡くなったMoffett大将にちなみ、 この滑走路には モフェット・フィールド(Moffett Field) という名前が付けられた。 その後、1942年4月20日には、「NAS Sunnyvale」から「NAS Moffett Field」に名前が 改められている。これは、海軍の中でも人名が基地の名前に付いている数少ない例である。

それから、ハイウェー101から見てもその大きさが見てとれる、あのドーム。 あの巨大な格納庫の正式名称は「ハンガー・ワン(Hangar-One)」と呼ぶのだそうだ。 長さ1,138フィート(約347m)、幅308フィート(約94m)、高さ198フィート(約60m)。 フットボール場7つ分もの広さだそうだ。 それから特徴的なのがその扉である。 英語では 「Orange peel doors」 と表現されているが、 ちょうど、みかんの皮の形をした扉が左右に開く構造になっている。 扉の重さは片方で500トン。 扉の開閉には左右それぞれに150馬力のモーターで動かしているそうである。

70年以上前、つまり、第二次世界大戦前に、 これだけ巨大な施設を既に建造していたとはハッキリ言って驚きである。 では、この「ハンガー・ワン(Hangar-One)」をどう使ったかについては、 続きとさせていただこう。

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2005年9月 3日

シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(1)

「シリコンバレー探検隊」というのがあるそうである。 7〜8年前から活動を開始しており、 シリコンバレーやその近辺のいろいろな場所を メンバーの皆さんで探検する会だそうだ。

それにしてもシリコンバレーには実にいろんな団体が存在するものである。 実は活動しているメンバーは、結構重なっていたりするのだが。

さて、この「シリコンバレー探検隊」が 今回は「Moffett Field Museum」を探検するということで メンバーの方からお誘いを受けた。

Moffett Field とは、 シリコンバレーに来たことがある方なら一度は見たことがあると思うが ハイウェー101をサニーベール(Sunnyvale)から マウンティン・ビュー(Mountin View)に向けて走ると右手に 飛行場のような滑走路と大きなドーム(格納庫)とが見える。 これは米軍の基地なのだが、そこを モフェット・フィールド(Moffett Field) と呼ぶのである。 私も知らなかったのだが、その敷地内に 「Moffett Field Museum」という博物館があり、一般にも公開されているとのことであった。

SKYMERICAも空に関係するビジネスをやっている訳だし、 今後、鹿児島大学のシリコンバレー研修ツアーの訪問先にもなりえるかもしれない、 という期待もあって、この探検に参加させて頂くことにした。

ここで疑問点があった。 はたして、民間人、しかも外国籍である我々が米軍の施設内に簡単に入れるのか、 ということ。 実は、私自身は、この施設内には何度か入ったことがあったのだが それは、退役軍人のご家族と一緒だから入れたのであった。 今回の探検隊では、まったく軍の関係者の同行をお願いすることなく 軍施設内の博物館まで行く計画であるが、いったいどうなるのであろうか。

この日、お昼前に米軍施設正門のセキュリティーの前に集合した。 探検参加者が集まったところで、それぞれの車で敷地内に入っていくことにした。 探検隊隊長が事前に交渉していたからかもしれないが、 セキュリティーの係員に カリフォルニアの免許証を見せるだけで米軍の敷地内に すんなり入いれてしまった。 別段、氏名を書いてバッジか何かをもらうようなこともなかったし、 車のトランクを開けるようにも言われなかった。 こんなセキュリティーでほんとに大丈夫なの、というのが正直な私の実感だった。

米軍施設内に入ってからは、というと、 長くなりそうなので、次回への続きとしよう。

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2005年8月17日

日本語が話せるアメリカ人と語ろう会

私の知り合いのある団体が、 現在新しい企画を開発中ということで、 今日は無理を言ってそれに参加させていただいた。 まだ企画の段階なので、申し訳ないが この団体の具体的な名称などは伏せさせていただく。

では、どんな企画かというと、無理やり題名をつけると 「日本語が話せるアメリカ人と語ろう会」 みたいな企画。 もちろん、どんなアメリカ人を、どこから、 どうやって連れてきて、何を語るか、 そして... と、ここら辺が この企画のノウハウになってしまうので 詳細についてはまだ秘密。

自分の勉強にもなるし、一種の国際交流にもなる、 ということで、その団体の方に頼みこんだワケ。 そこに参加している日本人の役割は、 参加されるアメリカ人の方が持つ日本についての疑問に答えること。

今日、参加されたアメリカ人は ほとんど完璧な日本語を話すので、 私は英語を一言も話す必要がなかったし、 教えるはずの我々日本人の方が 逆にいろいろ教わってしまった。 話しているうちに、 日本人であるはずの自分が如何に日本を知らないかがよくわかってくる。 ある意味、日本人にとっては怖い企画。

今後、この企画がどうなって行くかはまだわからないが、 将来的に面白い展開になるかもしれない。 その際は、また、このブログでレポートさせていただこう。

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2005年5月 9日

「追い出し会」

昨日は、知り合いの方々の帰国パーティーというか送別会(もっと正確にいうと「追い出し会」?)があったので、それに出席させていただいた。

ご存知の通りアメリカの学校では、夏休み前の5月末が卒業シーズンとなる。 そのため、日本から留学されていた方々もこの時期に帰国されることが多い。 ご多分にもれず、私の親しくさせて頂いていた方々も何人も帰国される。

この送別会の場所は、ホスト役をされた方のご自宅。 私はサンノゼの中心部より東側に行くことが殆どないため、ちょっと不慣れではあったが、その方の家はサンノゼ東部の高台にあり、夜はシリコンバレーの夜景を眺めながらのディナーとなった。

出席者の年齢層は広く、下は20代前半から、上は...。 それに、日本国内での出身地もまちまちで、湘南ボーイをはじめ関東出身組みもいれば、こてこて関西人あり、その他東北から九州までとこれまた幅広い。ジェネレーション・ギャップと出身地の違い、それに加えて渡米キャリア(日本を離れてからの年数)の違いが複雑に絡んで、みんな同じ日本語を話しているハズなのに、インタープリターが必要となる場面によく遭遇する。ジョークを言っても、ある特定のジェネレーションや、特定の地方出身者にだけウケたりする。 しかし、それがまたそれでおかしい。それから私のような地方出身者は関東や関西のご当地ネタについてゆけないこともある。

それにしても、出席者の皆さんの異常なほどのテンションの高さと笑いの渦の高さに、私などただただ聞く(笑う)ばかりで口を挟むひまもなかった。 今日からは、皆さんからいただいたエネルギーを糧に頑張ってゆきましょう。

最後に、日本に帰国される皆さん、これからも keep in touch でお願いします。

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